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足利学校

足利学校

日本最古の最高学府「足利学校」を紹介します

引用書
『新編 足利浪漫紀行?知られざる歴史を訪ねて』(日下部高明・菊地卓 著)


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学校門=足利学校には3つの門がある。最初の門が入徳門、2つ目の門が学校門、3つ目の門が杏壇門という。それぞれの門に名前を記した額がかかっている。


ASHIKAGA GAKKO
足利学校[日本最古の最高学府]

「学校様」という言葉が足利市民のあいだにある。足利学校が市民にたいへん親しまれていることの、ひとつの証である。最近は東京から、観光バスが何十台も足利学校にやってくるほどだ。
現在、足利学校は足利市昌平町にあるが、古くは渡良瀬川の近く小字(こあざ)十念寺(現・伊勢町4丁目)にあったと伝えられ、この跡の調査も実施された。
いい伝えによると足利荘の代官となった長尾景人が応仁元年(1467)足利学校を現在の場所に移したといわれ、その理由として渡良瀬川の水害を避けること、勧農城(岩井山)下の戦乱を避けたことが考えられる。長尾氏が足利学校の保護活動に熱心であったことは学校の存続を考えるうえでたいへん重要なことだ。
足利学校の創設については、国学の遺制、また小野篁(おののたかむら)、藤原秀郷の曽孫(そうそん)某、足利義兼、上杉憲実(のりざね)などの創設という説、様々ある。
しかし、一時衰えていた学校の再興に尽力したのは鎌倉にいた関東管領(かんれい)の上杉憲実で、応永26年(1419)管領の職を継いで以来、『尚書正義(しょうしょせいぎ)』20巻をはじめ、『毛詩註疏(もうしちゅうそ)』・『礼記(らいき)正義』・『春秋左伝註疏』などを寄進し、また鎌倉の円覚寺の僧であった快元を初代庠主(しょうしゅ)(校長)に招くなど学校の復興をはかった。憲実の子孫の憲房も父祖の志を受けて書籍を学校に寄進するなど、学校のために尽くした。
七代目の庠主九華(きゅうか)の代になると学校はますます盛況を極め、3000人もの生徒が学んだといわれる。学校はヤソ会の宣教師フランシスコ=ザビエルによってインドのゴア政庁に「坂東(ばんどう)(関東)に大学あり」と報告された。また、永禄3年(1560)には小田原の北条氏政が金沢(かねさわ)文庫の宋版(そうばん)『文選(もんぜん)』を寄進した。そのころの学校では、儒学を中心に易(えき)学・兵学・医学などが講義されていた。田代三喜・曲阿瀬道三(まなせどうさん)という有名な医師が育ち、医学の発展にも尽くした。
応仁の乱以後、戦国大名が最も苦心したのは領土の拡大であった。そのため、いつ兵を出すか、あるいは兵を退かせるかは重要な問題でこうした時に重宝がられたのが卜筮(ぼくぜい)(占いの技術)であった。足利学校の卒業者はその道の権威者として重んじられ歓迎された。たとえば徳川家康に仕えた第9代の庠主三要(さんよう)は有名であり、家康の寵愛(ちょうあい)をうけ孔子廟の修理も行った。当時、学校に学ぶ人々は僧侶だけでなく武士や医者も学んでいた。足利学校の教育が実用主義に貫かれていたことがわかる。
徳川氏による天下統一が実現し泰平の世が訪れると、足利学校は郷学(ごうがく)として近在の村からも豊かな家の子弟たちが入学して、漢学の手ほどきを受けたと伝えられる。やがて、わずかに貴重書を保管する文庫としての役割が学者によって注目され、数多くの学者や文人たちが学校を訪ねた。中世における足利学校のなごりを示すものといえば、年のはじめに学校から幕府にあてて提出された年筮(ねんぜい)(その年の占い)だけとなっていた。こうした状況のもとで、志のある先覚者によって足利学校の復興・再建の計画が試みられるが、大成しなかったのは惜しまれる。
平成2年の12月、足利学校の復原が完成し、江戸時代中期の姿が見事によみがえった。毎年、11月23日には孔子を祀る儀式(釈奠(せきてん))が催される。足利学校のたたずまいから往時の学生たちの息吹(いぶき)が伝わってくるようだ。

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