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鑁阿寺

鑁阿寺

中世の館跡にある源姓足利氏の氏寺「鑁阿寺」を紹介します

引用書
『新編 足利浪漫紀行?知られざる歴史を訪ねて』(日下部高明・菊地卓 著)


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太鼓橋と楼門=鑁阿寺を象徴する橋と楼門はセットとしてのつりあいがよくとれている。門は室町、橋は江戸時代の作で、ともに県重要文化財指定。最近、夜間照明によるライトアップで一段と美しい。


BANNAJI
鑁阿寺[中世の館跡にある源姓足利氏の氏寺]

「大日様」と足利市民から親しまれているこのお寺は、その名の通り大日如来を本尊とする真言宗の古刹である。正しくは金剛山仁王院法華坊鑁阿寺という。創建当初は高野山、やがて醍醐寺のそれぞれ末寺(まつじ)、そして長谷寺の直末(じきまつ)であったが、昭和26年、5カ寺を率いて独立、現在は真言宗大日派の本山である。足利市民にとっては初詣のみならず、なにかにつけてお参りする、心のより所としている寺が、この鑁阿寺であるといっても決して過言ではなかろう。
鑁阿寺は鎌倉時代の建久7年(1196)に足利義兼が館の中に営んだ持仏堂(堀内御堂(ほりのうちみどう))が始まりといわれる。開山は義兼の護持僧(ごじそう)の理真(りしん)、開基は義兼で法号を鑁阿と称したという。義兼の没後の天福2年(1234)にその子の義氏が追善供養のため大御堂(おおみどう)(現・本堂)を建立し寺院化を図った。一説には当時の開創は義兼の父義康(足利氏の祖)の時代の持仏堂にまでさかのぼるという。
鎌倉時代から南北朝時代にかけて、東光院・普賢院・不動院・六字院・浄土院・宝珠院・威徳院・延命院・千手(せんじゅ)院・金剛乗院・龍福院・安養院の12院の塔頭(たっちゅう)が6院ずつに分かれ法会(ほうえ)を行い、千手院が一山の学頭を務める制度が確立した。南北朝時代の終わりごろからは、鎌倉の鶴岡(つるがおか)八幡宮の支配下に置かれたと考えられる。また、鑁阿寺の経済的基盤は足利庄内の寺領であった。
江戸時代には歴代将軍から朱印地を賜り、徳川綱吉の生母桂昌院の保護を受けたことはよく知られている。
明治維新後、朱印地は上地(じょうち)となり12院は廃され、一時衰退するが、住職山越氏3代の努力と信徒の崇敬とによって次第に復旧し、現在に至っている。
寺宝としては鑁阿寺文書615通、仮名法華經、青磁の花瓶・香炉、金銅鑁字御正体(みしょうたい)などの国重文があり、建造物としては大御堂(本堂)・鐘楼・一切經堂(いっさいきょうどう)が国重文に、さらに東西の両門・楼門(ろうもん)・多宝塔が栃木県文化財に指定されている。境内の一部が庭園化されていて、ここに憩う人々の姿も多く見られる。初詣、節分の鎧年越、大祭(5月・11月)には多くの参詣人で境内はあふれ、また未・申年の守本尊としても有名だ。
なお、境内には校倉造りの宝庫、義兼の妻を祀る蛭子(ひるこ)堂、大酉(おおとり)堂、御霊堂(ごれいどう)、出世(しゅっせ)稲荷堂などがある。境内には句碑をはじめ塔碑類が数多く建っているが、その中で最も注目すべきものは、木食(もくじき)上人が奉納した灯篭で、柳宗悦(やなぎむねよし)によって世に紹介されたが、あまり人に知られていないのは少し残念でもある。このように境内をじっくり歩くと意外な発見に突き当たる。まずは、本堂をお参りしたら境内をゆっくりと散策してほしい。
ところで、室町幕府を開いた足利氏が氏寺である鑁阿寺に対して厚い保護を加えたことは当然のことであるが、寺院化される前は中世の武士の邸宅、つまり館(やかた)であったことを忘れてはならない。大正11年に足利氏邸宅趾として国史跡に指定されたことは意義がある。水堀と土塁によって防御された館はシンプルだが、りっぱな武士の屋敷だったのである。近年寺の周辺での発掘調査も進められ、界隈の様子も明らかになりつつある。

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