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足尾銅山略年表

足尾銅山略年表

足尾町を簡単に紹介します。
引用書
『銅山の町 足尾を歩く?足尾の産業遺産を訪ねて』(村上安正著/神山勝三写真)
『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』(布川了著/神山勝三写真)

足尾 北部地区銅山の光と影

北部地域は、近世後半に銅山の主力が移ったものの間もなく衰退したが、古河の銅山経営後に急速に発展して、近代足尾銅山のダイナミズムの源泉となった。そうした銅山発展の歴史の中で、光と影の部分が色濃く反映した。
近代はじめ、それまで足尾郷で栄えた松木・久蔵・仁田元は崩壊する一方、本山・赤倉・間藤は光の部分として脚光をあびた。
昭和48年、銅山閉山にともない、本山は消滅し、赤倉・間藤も活力を失っている。
時代を象徴するものとして、龍蔵寺、古河橋、間藤発電所跡など多くの遺産が残されている。

足尾 北東地区

日光につながる道筋

渡良瀬から神子内に至る北東部は、古くから人が居住し、久蔵路と並ぶ日光への交通路としてひらかれた。それが最高潮に達したのは細尾索道を中心に、前後に馬車鉄道でつないだ近代流通路であった。鉄道開通後はその機能を失い、中央部の近くは鉱山集落、柏木平などとして開発された。
銅山閉山後、日足トンネルが開通し、日光と両毛とを結ぶ幹線道路として復活、足尾町では活力のある地域として再生への試みが企てられている。

足尾 中央地区

宿から通洞へ

「足尾宿」として近世足尾銅山の中心だったこの地域は、足尾暴動以後に銅山の中枢が移り、大正期の河鹿開発で行政・商業の中心として躍進した。また、足尾の中では比較的平坦な地形に恵まれていた。
銅山閉山後は、鉱業用地のリニューアルが最も進んで、掛水クラブ周辺と選鉱所、中才浄水を除くと昔の面影を肌で感じることができない。とはいっても、近世の遺跡や近代を代表するものが残っているのも事実である。足尾の人間のドラマが生まれ、今はひっそり埋もれているモノに光をあて、再評価することも大切ではなかろうか。

足尾 南西地区

堆積所と山里

足尾の居住域としては、古くからの地の1つであり、その歴史と伝統を受け継いでいる貴重な存在である。
近世初めには川沿いに銅山街道が開設され、近代足尾銅山発展にともない、足尾鉄道としてリニューアルされた。また大正期、銅山の中心が通洞に移ったのにともない、広大な原堆積場が開設され、車窓から足尾銅山の印象を強く刻みこむ風景となった。
銅山閉山後、それらの象徴は次第に緑に包まれて、じっと目をこらさないと見落されるようになってきた。

足尾 小滝地区

渓谷と緑の小滝

足尾銅山の歴史の中で最も遅く開発がはじまり、最も早く鉱山集落の歴史を閉じた地域である。
庚申川をさかのぼる渓谷沿いの道をたどって、その風景を見ると、ここに最盛期1万人が住み、採鉱から製錬までの生産施設があったことが信じられないだろう。
製錬操業が短期間だったため、自然は再び戻り、早くから“緑の小滝”“人情の小滝”が定着した。その伝統が小滝会に受け継がれている。
同時に、あの太平洋戦争末期の中国人就労をめぐる戦後処理について、改めて考え直すモニュメントがあることを忘れてはならない。

足尾銅山略年表

BC5500 唐風呂、野路又に縄文人が居住。
大化 1 645 安蘇郡足尾郷となる。
神護景雲1 767 勝道上人(735?817)、男体登頂に失敗、庚申山、渋川を行脚し修業する。
延暦 9 790 足尾郷が日光中禅寺領になる。
大同 3 808 日光経由の移住者、総鎮守の妙見社を遠下に建てる。
正和 4 1315 神山、斎藤ら5姓が足尾に移住説。
元弘 3 1333 神山時盛、粕尾郷から唐風呂に移住説。
文亀 2 1502 時盛の子孫 吉種ら佐野氏に臣従する。
天文 19 1550 足尾銅山発見説(古河鉱業(株)発表)。
弘治年間 1555 (?7)足尾郷の戸数240?250戸。
永禄 1 1558 赤沢の伝左衛門、日光善如寺に金子借用の証文(鋪取り拡げで)。
天正 2 1574 この頃から慶長9(1609)年頃まで佐野氏が足尾銅山を支配、足尾宿500戸。
慶長 15 1610 農民の治部、内蔵が黒岩山で銅山発見説、江戸幕府の直山となり銅山奉行を置く。
   16 1611 足尾の山師、大工が大坂城攻めに動員される。
寛永 1 1624 日光普請のため足尾の大工らを動員、2カ月間銅山を休山。
   4 1627 銅山が日光東照宮支配となり、21年間つづく。
   5 1628 足尾銅で江戸城の銅瓦12万枚余、他に東照宮の銅瓦等を製造し、納める。
慶安 1 1648 銅山が公儀御用山(幕府直山)に変わる。
   2 1649 足尾銅輸送路としてあかがね街道を開設、利根川畔から蔵前まで舟便とする。
寛文 7 1667 足尾の民家焼失。
延宝 3 1675 大坂銅屋が足尾銅払下げを訴願、幕府5万貫を払下げる。
   4 1676 足尾山師による銅輸出を幕府承認、5カ1銅開始。足尾千軒の繁栄となる。
元禄 1 1688 幕府は5カ1銅を泉屋・大坂屋に委託、14年間の契約を締結。
   14 1701 5カ1銅の契約満了、足尾産銅量は下降に向かう。
   16 1703 足尾で128万枚の銅瓦を製造する。
宝永 1 1704 秋に足尾で大洪水、間歩と焼釜修理に幕府は3千両貸付。
   2 1705 山師申請の産銅の1部を江戸町売りについて幕府認可(山師救済)。
正徳 4 1714 幕府は産銅増加のため山師に2千両余を貸付、産銅は全量銅瓦に製造へ。
享保 3 1718 4月、足尾大火で宿全滅、幕府は8千両10年賦で貸付。
   11 1726 渡良瀬川大洪水、銅山大破。以後豪雨と洪水が繰り返され山師困窮の途に。
元文 1 1736 江戸の銭座が廃止され、足尾銅の町売りの販路を失い大打撃。
寛保 1 1741 足尾山元で鋳銭製造許可される。6年間で鋳銭16万貫弱、「おあし」の語源。
寛永 4 1751 この頃、山師43名、稼人533名、間歩総数1、484。
宝暦 4 1754 足尾郷14村の石高750石、年貢百両、他に薪1万5千束を日光山に納める。
天明 3 1783 石崎某、銅山間歩を検分、幕府は出沢2カ所の普請を命令、別に2千両貸付。
寛政 8 1795 幕府は銅山用金2万両の利金で銅山経営を図る。
文化 2 1805 幕府は足尾で胆礬製造と買い上げの特権を与える。
   12 1815 山師1名となり、銅山は幕府の御手山稼ぎとなる。
天保 3 1832 古河市兵衛、京都の没落した庄屋の子として生まれる。
弘化 1 1844 御手山稼ぎを廃止する。銅山は休山状態になる。
明治 1 1868 足尾銅山は明治新政府に没収され、真岡県が管轄する。
   2 1869 管轄が日光県に移り、県営銅山となる。
古河市兵衛、小野組別家に取立てられ、関東・東北の事業を任され、鉱山業にも進出する。
   5 1872 栃木県が足尾銅山の資金援助を政府に要請、鉱山寮技師長ゴットフリーが調査して民営移管を示唆、野田彦蔵に足尾銅山を払下げる。
   7 1874 政府の政策変更で小野組瓦解、古河市兵衛は裸1貫で再起を図る。
   8 1875 古河市兵衛、相馬家の支援を得て草倉銅山の経営を開始、成功を収める。
   10 1877 古河市兵衛、相馬家の支援を得て足尾銅山を買収する。半年間妨害のため事業に着手できず、木村長七らの間歩調査が行われ再建策まとまる。
   11 1878 本口坑などで古河直轄の直営開鑿を決定。
   13 1880 渋沢栄一が足尾銅山の経営に参加。
銅山不振がつづき四代坑長に古河市兵衛の甥 木村長兵衛を起用、背水の陣を布く。鷹之巣坑開鑿を開始。
古河は商標をとし、鉱業専業を宣言する。
   14 1881 鷹之巣坑で神保の直利を補捉、足尾銅山好転に向かう。
   16 1882 本口坑開坑で横間歩大直利を補捉、月産銅量が前年の年産を突破する。
   17 1883 足尾産銅量が発展、日本の首位になる。直利橋製錬分局、本山病院、東京・本所熔銅所をそれぞれ創設、足尾町内の道路大改修を開始する。
直利橋を架設、社会基盤整備が急展開。
   18 1885 横間歩西部開発のため小滝坑の取明け開始、新直利続々発見。
9月、通洞開鑿開始、横間歩の主力洞鋪が出水で水没、安定した動力源を模索、同時に下部排水路として有木坑を鑿岩機による開鑿を開始する。
   19 1886 小滝坑躍進で小滝分局を設置、交通路や社会基盤の整備を開始。
銅山私設電話を開設。
   20 1887 4月、松木より出火、松木川沿岸の施設および住宅を焼失する。製錬分局を再建。
   21 1888 古河とジャーデンマジソン商会との売銅契約成立、増産急ピッチに。
   22 1889 機械選鉱を開始。足尾に町制施行。本所熔銅所で電気精銅を開始。
   23 1890 間藤発電所、古河橋が完成。細尾峠に索道完成し、馬車路と連結して日光駅とを結び、貨物輸送の大改革成る。
   24 1891 町内幹線の馬車鉄道完成。
   26 1893 銅の錬銅に転炉法実用化、製錬の近代化が完成する。
   29 1896 渡良瀬川大洪水で足尾鉱毒問題沸騰。通洞完成する。
   30 1897 足尾鉱毒予防工事命令下る。
小滝製錬所を廃止して直利橋分局に集約、中央製錬所となる。坑内電車運行開始。
   34 1901 渡良瀬発電所および通洞発電所竣工。
   35 1902 9月、降雨量315ミリの足尾台風直撃、簀子橋壊滅、本山も大被害。
ライナー式鑿岩機を試用し主力機に選定。小滝発電所竣工、足尾館が建つ。
   36 1903 古河市兵衛死去。金田座が建つ。
永岡鶴蔵、夕張から東京を経て足尾銅山に入り、翌年から坑夫の組織化を図る。
   38 1905 家業と分離して古河鉱業会社を設立。古河潤吉病没。大谷水系の細尾発電所竣工。
   39 1906 岩鼻火薬製造所の国産ダイナマイトの試験を行ない成功、使用を開始する。
日光精銅所操業開始。
南助松の応援を得て永岡らの組織再建し、大日本労働至誠会の運動が活発化する。
玉村勇助、索道機械の特許を取得して古河を退社、玉村工務店を創立。
   40 1907 2月、足尾暴動勃発、軍隊出動で鎮圧、至誠会の組織は壊滅する。
足尾警察署が独立する。
   41 1908 足尾暴動の判決で南、永岡ら幹部10名の無罪確定。
   43 1910 製錬新工場完成、粉鉱製錬用の製団機完成しネック解決。
坑内立坑で人員昇降を開始。
   44 1911 坑内手元照明用にカーバイトを使用したカンテラを採用。
大正 1 1912 足尾鉄道開通。坑外に大型コンプレッサーを設置、鑿岩機使用に加速化。
   2 1913 現場係員養成の足尾銅山実業学校創設(県立足尾高校の前身)。
   3 1914 小型国産鑿岩機の足尾式完成。製錬の脱硫塔廃止。鉄道開通により細尾索道を廃止する。坑内鉱車を鉄製に転換、切羽専用の鍋鉱車使用開始。
   4 1915 浮遊選鉱法の操業開始。製錬排煙処理に電気集塵器を採用、煙灰除去に効果。
   5 1916 工作課の鑿岩機工場完成し、量産体制に入る。
   6 1917 通洞坑で出会300尺河鹿を発見、巨大な塊状鉱床の発見と開発へ進む。
   7 1918 エンドレス巻を開始、粗鉱運搬の効率化成る。古河鉱業(株)設立される。
   8 1919 足尾銅山に相次いで労働組合結成、最大の大日本鉱山労働同盟会の争議起こる。後半に大量馘首と飯場の圧迫で争議が激化、飯場制度撤廃で対立したが警察の調停で決着する。以後飯場制度から漸次世話役制度に移行する。
   9 1920 古河商事の雑穀取引の欠損2500万余円となり、跡処理のため古河財閥大ピンチ。古河商事解体や合理化進行。
小滝選鉱場を廃止し通洞選鉱場に統合、下部開発を中止し水没、河鹿に採鉱を集中、採鉱機械化に進む。
鉱山関係3労組が統合、大日本鉱夫総連合会に結集、足尾連合会は最大組織。
   10 1921 本山選鉱場を廃止し、通洞に1本化完成。通洞選鉱場から製錬への精鉱運搬が鉄道貨車扱いに転換。
鉱夫総連合会足尾連合会の争議が敗北。労働総同盟大会の論点になる。
足尾鉱業事務所を足利市に売却、現地渡し5万5千円、市庁舎に。
   12 1923 製錬で蒼鉛工場操業開始、煙灰からの副製品回収開始。
吉村副社長、足尾鉱業所長を兼任して赴任、労資関係正常化に挺身する。
   13 1924 足尾銅山体育会を創立、体育振興を図る。
河鹿採掘に方枠充填法を採用、充填材は選鉱廃滓を再利用、索道運搬で有越ポストへ投入、坑内にベルトコンベアも使用する。
   14 1925 古河虎之助社長が出席して全山大園遊会を開催、労資協調を推進する。
足尾連合会主体で足尾公民党結成、町議選挙に快勝、以後県下の無産政党運動に石山寅吉らが活躍。
昭和 1 1926 馬車鉄道を廃止してガソリン軌道車に転換、有越河鹿群の下部開発進行で斜坑運搬を開始。
   3 1928 古河と足尾連合会との協議で労働運動者の足尾退去決定。
   4 1929 通洞坑西部探鉱で低品位鉱染鉱床発見(連慶峙河鹿群)。
   5 1930 坑内採鉱はすべて粗鉱掘に全面転換、機械採掘主体に。
   6 1931 古河鉱業、下期に赤字決算に転落、賃金切下げなどを実行。
   9 1934 鉱脈採掘にシュリンケージ法全面採用。
   10 1935 貧鉱大量処理の選鉱新工場完成し、操業開始。
   14 1939 足尾銅山鉱業報国会および力行会結成。
   15 1940 戦時体制強化で国内労働力不足の補充として朝鮮人労働者を使用、主として坑内労働に。ニッケル製錬を開始。
   16 1941 太平洋戦争始まる。足尾銅山鉱業報国会に他の諸団体を統合。
   17 1942 足尾銅山から機械部門の足尾製作所が独立。
   19 1944 中国人が強制連行され、坑内に就労。
   20 1945 日本が連合国に無条件降伏、中国人、朝鮮人の争議が起こる。
銅山の存続、生活権確保を掲げて足尾銅山労働組合同盟会結成。
   21 1946 食糧危機突破町民大会でヨロケ撲滅を決議、坑外夫の坑内応援、ついで製錬炭確保のため坑内夫の炭坑応援始まる。
   22 1947 キャサリン台風で大被害、足尾線復旧までに1カ月半。
   23 1948 重液選鉱法に成功、選鉱の完全機械化の道が開かれる。
   24 1949 キティ台風で通洞坑口前堤防が決壊、鑿焼工場全滅、赤沢橋流失。
鉱山保安法公布、10月より銅の価格差補給金打切り。
   25 1950 朝鮮戦争勃発で非鉄鉱山好況に、足尾銅山再建整備計画が発表され、手選女工廃止、合計500名の人員整理を希望退職で、労組承認。足尾高校が県立に。
   26 1951 河鹿周辺部の硫化鉱採掘開始、再建計画の産銅量をはるかに突破する。
足尾の「人身売買事件」「金ヘン盗難事件」が新聞で大きく報道される。
   27 1952 春闘で計12日間の波状スト、ピケットラインによる職員就業拒否も行う。
   29 1954 小滝の厚生施設撤収、坑内排水の自動化、浄水鉄索廃止と149名の人員整理などの合理化案発表、小滝の人員は本山、通洞に移転。
浄水の象徴ドレッジャーの廃止(のち完全撤去。)
この頃、鑿岩機のエヤーレッグハンマー普及し、鑿岩作業がワンマン化に。
   31 1956 自熔製錬所竣工し、操業開始。排煙から硫酸製造も開始、製錬所が鉱業所から独立して足尾製錬所が発足。
   35 1960 簀子橋ダムが完成、電車とダンプトラックによる選鉱廃滓の堆積始まる。これにともない選鉱の鉄索が全面廃止。
2月、足尾小学校の木造校舎が全焼。
   37 1962 貿易自由化にともなう銅価格の低落阻止に足尾町危機突破町民大会を開催。
   38 1963 足尾銅山の年産銅量6、113トンで戦後最高を記録。砂畑橋が竣工。
   39 1964 小滝広場に「小滝の里」記念碑が元小滝在住有志の手で建つ。
   41 1966 3月の月産銅量550トンで戦後月産最高を記録。
   42 1967 銀山平に国民宿舎かじか荘がオープンする。
   44 1969 足尾公民館が旧足尾高女跡に竣工。赤沢と松原に大火発生。
   47 1972 4月、足尾鉱業所、足尾製錬所および陶管工場が統合し、足尾事業所発足。
11月、古河鉱業(株)、足尾銅山採鉱部門の閉鎖を発表。
12月、閉山対策町民大会を開催し、銅山閉山阻止の対策を協議。
   48 1973 2月末で足尾銅山が閉山になる。本山社宅は無人化。
銀山平に「中国人殉難烈士慰霊塔」が建つ。10月、日足トンネルを着工。
   51 1976 日足トンネルが貫通。
   52 1977 銅山坑内から引湯して足尾温泉開業(かじか荘等)。
足尾町民センターに古河の「足尾銅山記念室」開設。
   53 1978 日足トンネルが開通し、日光?足尾の交通が大幅に改善。
   55 1980 通洞坑口付近に町営の足尾銅山観光が発足、坑内観光が始まる。
国鉄民営化にともなう足尾線存続町民総決起大会を開く。
砂畑に足尾双愛病院が開設。
   56 1981 足尾バイパスが開通。
   58 1983 銅山観光に鋳銭座オープン(通洞坑口前)。
   60 1985 栃木県営発電所が起動開始。
   61 1986 小滝の里記念碑を再建。
   62 1987 足尾線の第3セクターによる存続が決定。赤沢と赤倉で大火。
平成 1 1989 国鉄民営化移行で足尾線の貨物輸送が廃止、製錬所は事実上操業停止。
わたらせ渓谷鉄道が営業開始。
   2 1990 古河を含むボナンザ総合開発(株)創立、足尾の総合開発を目指す(のち休眠)。
   3 1991 坑内観光の入場者400万人を突破。
   4 1992 砂畑社宅跡に足尾さく岩機(株)竣工、操業開始。
   5 1993 わたらせ川協会設立、足尾に資料館建設をめざす。
   8 1996 足尾ダム周辺に、あかがね親水公園が完成。
原小学校が廃校、足尾の小学校は足尾・本山の2校となる。
足尾に緑を育てる会発足、大畑沢緑の砂防ゾーンで植樹始まる。
   9 1997 生野と足尾の明治を描く立松和平の小説『恩寵の谷』出版記念会を開催。
   10 1998 産業考古学会全国大会を足尾地区で開催。

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